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神戸地方裁判所 昭和56年(ワ)1385号 判決 1985年3月29日

原告

石井雅子

右訴訟代理人

小林廣夫

伊藤香保

被告

右代表者法務大臣

嶋崎均

右指定代理人

前田順司

外五名

被告

飯塚泰

被告両名訴訟代理人

小西隆

主文

被告らは、原告に対し、各自三七八四万円及びこれに対する昭和五六年一一月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の各請求をいずれも棄却する。

訴訟費用はこれを四分し、その一を原告の、その余を被告らの各負担とする。

この判決は原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、各自六二五七万五二〇四円及びうち五四四一万三二二一円に対する昭和五六年一一月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告は、昭和四九年六月以来神戸大学付属病院において事務職として勤務していたところ、昭和五一年一二月二三日、勤務先における職場検診の結果肺結核症と診断された。

(二) 被告国は国立加古川病院(旧称国立加古川療養所、以下「加古川病院」という。)を開設している。

被告飯塚泰(以下「被告飯塚」という。)は被告国に雇用されて加古川病院に勤務する医師である。

2  加害行為

(一) 原告と被告国(加古川病院)とは、後記入院に先立つて、原告の肺結核症の治療を目的とする診療契約を締結した。当時における原告の肺結核症の程度は、原告が昭和五二年一月四日加古川病院に入院時、被告飯塚の記載にかかる診療録にも明らかなとおり、当初から塗抹及び培養のいずれの検査からも結核菌の検出はされず、同年四月五日のレントゲン撮影及び断層レントゲン撮影の結果は、「病巣が若干吸収」とされ、同月一五日の断層写真でも「全般に吸収中、特に肺尖縦隔よりで著明」とされていて、原告の右病状は、軽度のものであつた。

ところが、原告の主治医となつた被告飯塚は、原告に対し、昭和五二年一月四日から同年七月一一日まで入院加療を、その後昭和五五年七月まで通院加療を施し、この間、昭和五二年一月七日から同年五月三一日まで一回一グラム、週二回の割合で合計四二グラムの硫酸ストレプトマイシン(以下ストレプトマイシンを「ストマイ」という。)を投与した。

(二) 原告は、昭和四二年三月ころ(一五歳時)から、疲労時に耳鳴りが起こるようになり、聴力が低下したため、飯田耳鼻咽喉科において通院治療を受けていたが、昭和四四年ころ聴力障害の進行は停止し、昭和四六年ころ右通院もやめた。それ以後、原告は、通常人より聴力の劣つた状態にあつたが、日常生活にさしたる不便を感じてはいなかつた。

ところが、原告は、加古川病院に入院中の昭和五二年五月末ごろ(二四歳時)、それまで経験したことのない大きな耳鳴りと頭痛に襲われ、その直後から一層聴力が低下した。

以後の原告の聴力障害の進行状態は別表一聴力検査表のとおりである。つまり、

(1) 会話音の強さは、ささやき声が一〇ないし二〇デシペル、静かな声が二〇ないし三〇デシベル、普通の声が四〇ないし五〇デシベルであり、その周波数は五〇〇ないし二〇〇〇サイクルとされているところ、加古川病院におけるストマイ投与前日の昭和五二年一月六日における原告の聴力損失値は、右耳気導聴力で一〇ないし五〇デシベル、左耳気導聴力で五五ないし八〇デシベル、右耳及び左耳の骨導聴力損失値は、二〇ないし五〇デシベルである。なお、八〇〇〇サイクルにおける骨導聴力は、両耳とも四五デシベルでスケールアウト(オージオメーターの最大のレベルで聞えない)とされている。

(2) 昭和五二年二月一九日(ストマイ投与開始後四四日目)においては、右耳の気導聴力のうち、八〇〇〇サイクルにおける損失値がストマイ投与前の四五デシベルから八〇デシベスに急激な悪化を示し、二五〇サイクルでストマイ投与前の四五デシベルから四〇デシベルに(ただし、最終的には悪化している。)、二〇〇〇サイクルで二〇デシベルから二五デシベルに変化し、左耳の気導聴力は、八〇〇〇サイクルにおいてストマイ投与前の八〇デシベルから八五デシベルでスケールアウトとなつており、二五〇サイクルで五五デシベルから七〇デシベルへ、五〇〇サイクルで六五デシベルから七五デシベルに、二〇〇〇サイクルで六〇デシベルから六五デシベルへ、四〇〇〇サイクルで六五デシベルから七〇デシベルに悪化している。

また、右耳の骨導聴力は、二五〇サイクルにおいて、ストマイ投与前の二五デシベルから四〇デシベルに、一〇〇〇サイクルで四〇デシベルから五〇デシベルへと悪化し、他方、左耳のそれは、二五〇サイクルでストマイ投与前の二五デシベルから四五デシベルへ、一〇〇〇サイクルにおいて四五デシベルから五〇デシベルに、四〇〇〇サイクルで二〇デシベルから三五デシベルにとそれぞれ悪化している。

原告は、現在、両感音性難聴で平均純音聴力損失値が右耳八五デシベル、左耳八〇デシベルとなつているほか、絶えず耐え難い頭痛や耳鳴りの自覚症状がある。

(三) 原告の現在の聴力障害、頭痛及び耳鳴りは、被告飯塚のした硫酸ストマイの投与により惹起されたものである。

このことは、ストマイによる聴力障害は高音域から低音域へと波及するものであるところ、原告の聴力障害も硫酸ストマイの投与開始後約四〇日目に八〇〇〇サイクルの高音域において進行を開始したこと、また、ストマイ投与量二〇グラム以内で聴力障害が発現した症例ではほぼ全例に強度の耳鳴りを伴つているところ、原告の場合も耐え難い耳鳴りを伴つていることの各事実から明らかである。

なお、原告の聴力障害の進行状態をみると、硫酸ストマイの投与中止後に更に悪化した部分もあるが、ストマイによる聴力障害においては投与中止後に進行する例も存するところであるから、原告の症状を硫酸ストマイに基づくものと認める妨げとはならない。

3  被告飯塚の責任原因

ストマイが第八脳神経に作用して回復困難な高度の聴力障害をもたらすことがあること、ストマイによる聴力障害は、初め八〇〇〇ないし六〇〇〇サイクルの高音域において発現し、その後低音域に波及することは、公知の事実である。

したがつて、結核の治療に携わる医師には、ストマイの投与にあたり、患者の既応の聴力障害の有無や結核の程度等を考慮して投与すること自体慎重に判断するとともに、投与前及び投与期間中オージオメーターによる聴力検査等各種検査を施し、患者の自覚症状の訴えに耳を傾ける等して副作用の発現をチェックし、その危険性を認めた場合には直ちに投与を中止すべき診療行為上の注意義務がある。

以下、これを本件についてみる。

(一) 原告は、硫酸ストマイの投与前から前記のとおりの聴力障害を有し、この事実を被告飯塚にも伝えていた。また、原告の肺結核の症状は前記のとおり軽度であつた。

右事実のもとでは、被告飯塚には、原告に対する硫酸ストマイの投与を差し控え、別種の抗結核剤を使用すべき診療行為上の注意義務がある。

それにもかかわらず、被告飯塚は、聴力検査の結果をみる以前に硫酸ストマイの投与を決定する等して安易に原告に対して硫酸ストマイを投与し、右の診療行為上の注意義務に違反した。

(二) 結核医療に従事する医師は、ストマイ投与にあたつての聴力検査を正常聴力者の場合ですら初め三か月は少くとも毎月一回の割合で行つて慎重に経過観察をすべきであり、検査の結果八〇〇〇サイクルの高音域において聴力の低下をみた場合には直ちに投与を中止すべきである。

それにもかかわらず、被告飯塚は、硫酸ストマイの投与開始後四四日目、九一日目及び一四七日目にしか聴力検査を行わなかつたうえ、四四日目の検査の結果八〇〇〇サイクルにおいて三五デシベルもの聴力低下を発見したのになおも投与を続行し、右の診療行為上の注意義務に違反した右のとおりであるから、被告飯塚は、原告に対し、民法七〇九条により、診療行為上の注意義務に違反した過失に基づく不法行為責任を負う。

4  被告国の責任原因

(一) 前記3の注意義務は診療契約上の注意義務でもあり、被告飯塚は被告国の履行補助者として右義務に違反した。

したがつて、被告国は、原告に対し、民法四一五条による債務不履行責任を負う。

(二) また、被告国は、原告に対し、被告飯塚の使用者として民法七一五条による使用者責任を負う。

5  損害

前記加害行為により原告の被つた損害は以下のとおりである。

(一) 逸失利益 三九四一万三二二一円

原告は、昭和五二年七月一一日に肺結核症の軽快により加古川病院を退院したから、右の時点から若干の静養期間を置いた同年九月(二五歳時)から六七歳までの四二年間は短大卒女子労働者としての通常の仕事に就労しえたはずである。

原告の現在の聴力損失の状態は前記2(二)のとおりであり右は自動車損害賠償保障法施行令第二条後遺症等級表第4級第3号に該当し、労働省労働基準監督局長通牒別表によれば、右の労働能力喪失値は九二パーセントである。

原告の昭和五二年における年間収入額は、昭和五一年度賃金センサスにより一九二万一七〇〇円とみるべきである。

そこでホフマン法により中間利息を控除して原告の逸失利益現価を計算すると、三九四一万三二二一円となる。

(1,921,700×0.92×22,293−39,413,221

(二) 慰謝料 一五〇〇万円

原告は、他人との会話が不能となつたことはもちろん、日常生活上必要な全ての音を奪われたうえに現在も耐え難い耳鳴り及び頭痛に苦しんでいる。

右の原告の苦痛を敢えて金銭評価すれば一五〇〇万円を下らない。

(三) 弁護士費用 八一六万一九八三円

原告は、本訴訟の追行を原告訴訟代理人両名に委任し、弁護士報酬として勝訴額の一割五分に当る八一六万一九八三円の支払を約した。

(四) 損害額合計六二五七万五二〇四円(弁護士費用を除く損害額合計五四四一万三二二一円)

6  よつて、原告は、被告ら各自に対し、損害金六二五七万五二〇四円及びうち五四四一万三二二一円に対する本訴状送達の日の翌日である昭和五六年一一月二六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1(一)  請求原因1(一)の事実のうち、原告が神戸大学付属病院事務職員であつたことは不知、原告が昭和五一年一二月二三日ころ勤務先における職場検診で肺結核症と診断されたことは認める。

(二)  同(二)の事実(被告ら)は認める。

2(一)  請求原因2(一)の事実(診療契約の締結、硫酸ストマイの投与)は認める。但し、当時、原告の肺結核が原告主張程度の軽度のものであつたことは争う。

(二)  同(二)の事実(原告の聴力障害の進行)のうち、原告には硫酸ストマイの投与前からの聴力障害があつたこと(但し、その程度は軽度である。)、昭和五二年五月末ころ原告から被告飯塚に対し頭痛の主訴があつたことは認めるが、その余は不知。

(三)  同(三)の事実(因果関係)は否認する。

3  請求原因3の事実(被告飯塚の責任原因)のうち、医師には、ストマイによる副作用防止のため、投与開始にあたつて慎重な判断をし、治療前及び治療中原告主張のごとき検査を施行し、患者の自覚症状の主訴に留意すべき注意義務のあることは認めるが、被告飯塚が右の注意義務に違反したことは否認する。

また、患者にストマイ投与前から聴力障害がある場合には投与を回避すべき義務があることも否認する。すでに感音性難聴のある耳が特にストマイに弱いという事実は認められないので、既応の聴力障害が存したからといつて、通常よりも高度な注意義務が医師に対して課されるわけではない。

4  請求原因4の(一)及び(二)の各事実(被告国の責任原因)は争う。

5  請求原因5の(一)ないし(四)の各事実(損害)は否認する。

三  被告らの主張

1  因果関係について

原告に投与されたストマイは硫酸ストマイであるが、硫酸ストマイはジヒドロストマイと異なり聴力障害を惹起することは極めてまれであるし、原告の聴力障害の進行状態をみると、一個性である点、右耳気導八〇〇〇サイクルにおける聴力低下から同四〇〇〇サイクルにおける聴力低下までの期間が三か月以上の長期間である点、進行が段階的状態を示している点、右耳気導八〇〇〇サイクルにおいては昭和五四年になつても障害がそれ以上進行していない点、高音域の聴力低下の次に中音域をとばして低音域の低下がみられる点、硫酸ストマイの投与中止後数年間進行を続けている点等の諸点においてストマイによる聴力障害の典型と異なつている。

むしろ、原告の聴力障害は、硫酸ストマイの投与前から有していた別の素因による両側性進行性感音性難聴というべきである。

2  被告飯塚の過失について

被告飯塚は、胸部エックス線写真像等により原告を中等症の肺結核症と判定し、聴力検査等を行つたうえで、原告に対し、硫酸ストマイ、パラアミノサリチル酸塩(以下「パス」と略称する。)及びイソニコチン酸ヒドラジド(以下「ヒドラジド」と略称する。)の三者併用による化学療法を施すことに決定した。ところで、右の療法は、臨床的効果が強力であるため、結核予防法に基づく「結核医療の基準」及び健康保険法に基づく「結核の治療指針」によつて原則的な化学療法として指定されているのであるから、必要な諸検査を経て慎重な判断のもとにこれを選択した被告飯塚には、何らの過失もない。

また、被告飯塚は、硫酸ストマイの投与開始後、初めは約一か月間隔、その後は約二か月間隔で聴力検査を実施し、会話音域に隣接する四〇〇〇サイクルにおいて著しい聴力低下を発見した昭和五二年六月二日の時点で硫酸ストマイの投与を中止した。この点においても、被告飯塚には、何らの過失もない。

そのほか、被告飯塚は、昭和五二年五月二〇日ころ、ストマイによる聴力障害についての不安感を有していた原告から耳鼻科医の診察を受けたい旨の申出を受けた際にも、その受診のための外泊を許可し、硫酸ストマイの投与継続につき耳鼻科医からの助言を得てくるよう申し渡し、原告の帰院後診察結果につき質問する等、原告の聴力の変化に細心の注意義務を払つて対応してきた。

四  被告らの主張に対する原告の反論

1  因果関係に関する主張について

原告には硫酸ストマイ投与前から既応の聴力障害があり、障害の程度には左右両耳で差異があつたところ、硫酸ストマイの投与後、両耳とも聴力が急激に低下した。すなわち、硫酸ストマイ投与後の原告の聴力低下も両側性である。

原告の場合、八〇〇〇サイクルにおける聴力低下の発現までの硫酸ストマイ投与量は一三グラム、四〇〇〇サイクルにおけるそれは四二グラムであつたところ、右各周波数における聴力低下の発現までのストマイ投与量が原告の場合に近似している症例は複数報告されている。したがつて、八〇〇〇サイクルにおける聴力低下から四〇〇〇サイクルにおける聴力低下までの期間が長過ぎるとはいえない。

仮に、原告の既応症が両側性進行性感音性難聴であつたとしても、両側性進行性感音性難聴が六年を越えて進行した例はないところ、原告の聴力障害の進行は硫酸ストマイの投与まで七年余もの間停止していた。また、進行性感音性難聴は、五、六歳、思春期、妊娠及び分娩の時期、三〇歳代、七〇歳代に多く悪化する点、全体の平均進行速度は一か月あたり一デシベル程度である点が特徴とされるが、原告の聴力低下は、二四歳時に発現し、進行が著しく速い等、右の特徴と一致しない。したがつて、硫酸ストマイ投与後の原告の聴力低下が、投与とは無関係の既応の両側性進行性感音性難聴の再発とは考えられない。

2  被告飯塚の過失に関する主張のうち、耳鼻科医での受診の経緯に関する部分について

原告は、被告飯塚に対して加古川病院付近の耳鼻科医の診察を受けたい旨申し入れたが、被告飯塚の許可を得られなかつたため、やむなく被告飯塚には秘して大阪大学付属病院耳鼻咽喉科で受診したのである。

被告飯塚が、原告に対し、耳鼻科医の助言を得てくるよう申し渡したり、耳鼻科医の診察の結果を質問したことはない。

第三  証拠<省略>

理由

一当事者

請求原因1の各事実のうち、原告は、昭和五一年一二月二三日ころ、勤務先における職場検診の結果、肺結核症と診断されたこと、被告国は加古川病院を開設していること、被告飯塚は被告国に雇用されて加古川病院に勤務する医師であることは、当事者間に争いがない。

二診療契約の締結と診療行為

原告と被告国(加古川病院)とは原告の肺結核症の治療を目的とする診療契約を締結したこと、そして、被告飯塚が、原告の主治医となり、昭和五二年一月四日から同年七月一一日まで入院加療を、その後昭和五五年七月まで通院加療を施し、この間、化学療法として昭和五二年一月七日から同年五月三一日まで一回一グラム、週二回の割合で合計四二グラムの硫酸ストマイを投与したこと(請求原因2(一)の事実)は、当事者間に争いがない。

三原告の聴力障害の進行状況

<証拠>によれば、原告は、昭和四二、四三年(一五、一六歳時)ころから、疲労時に耳鳴りが起こるようになり、聴力が低下したため、飯田耳鼻咽喉科に通院し、治療を受けたこと、しかし、当時原告の聴力障害の原因は不明と診断されたこと、原告の聴力は、飯田耳鼻咽喉科での治療によつても回復せず、通常人に比べて劣つた状態にあつたが、原告は、昭和四六年ころ、自らの判断で右耳鼻咽喉科での受診をやめたこと(以後硫酸ストマイの投与を受けるまで原告の聴力障害の進行が停止していたことは後記認定判断のとおりである。)、原告は、硫酸ストマイの投与開始後である昭和五二年五月末ころ大きな耳鳴りと頭痛に襲われ、その後一層の聴力低下をきたして、昭和五六年一〇月二七日の明石市立市民病院における聴力検査の結果では、平均純音聴力損失値が右耳八五デシベル、左耳八〇デシベルとなつているほか、現在、絶えず耳鳴りや頭痛の自覚症状があること、なお、昭和五二年一月六日以降の原告に対する聴力検査の結果は、別表二及び三の通りであること(昭和五二年一月六日から同年六月二日までの四回分は加古川病院、同月八日から昭和五五年八月五日までの一二回分は大阪大学医学部付属病院、昭和五六年九月二日分は明石市立市民病院においてそれぞれ検査された。)が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

四硫酸ストマイの投与と聴力障害の進行との因果関係

1(一)  硫酸ストマイの副作用

<証拠>によれば、硫酸ストマイは、第八脳神経に作用して、主として前庭機能障害(めまい)の副作用をもたらすが、時として内耳の感覚細胞である有毛細胞を破壊して聴覚障害が耳鳴りをもたらす場合があることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

そして、<証拠>によれば、原告の前記入院後にみられる聴力障害は、右の硫酸ストマイの副作用としてのものと同様、内耳の有毛細胞の破壊による感音性のものであることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二)  硫酸ストマイの投与と聴力障害の進行との時間的関係

まず、前記昭和四二年ころ発症した原告の聴力障害の進行が硫酸ストマイの投与前に停止していたか否かという点について判断するのに、<証拠>及び原告の本人尋問における供述中には、聴力障害の進行は昭和四四年ころ停止し、それ以後硫酸ストマイの投与まで聴力は一定していた旨の記載及び供述部分がある反面、硫酸ストマイ投与直前の原告の聴力障害が相当程度悪いものであつて、これ程の障害を耳鼻咽喉科医が放置するとは考え難いことからすれば、飯田耳鼻咽喉科での受診打切り後から思春期の間に、原告の聴力障害はある程度進行していたものと推測される旨の証人三好豊二の証言部分もある。

そこで検討するのに、<証拠>によれば、日常会話音の周波数は五〇〇ないし二〇〇〇サイクルであり、日常会話音の強さは約四〇ないし五〇デシベルであることが認められるところ、前記のとおり、硫酸ストマイの投与直前である昭和五二年一月六日における原告の気導聴力損失値は、五〇〇サイクル、一〇〇〇サイクル及び二〇〇〇サイクルでそれぞれ、左耳は六五、七〇及び六〇デシベルであつたが、右耳は五〇、四〇及び二〇デシベルであつたから、右時点において、原告は、少なくとも両耳による限り、日常会話にさしたる支障を生じない程度の聴力を有していたというべきである。また、現に<証拠>によつても、原告は、昭和四九年六月から勤務先の神戸大学医学部附属病院において外来患者の受付事務に難なく従事し、加古川病院入院時の問診の際にも被告飯塚と不自由なく会話をしたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

以上によれば、硫酸ストマイの投与直前における原告の聴力障害は、日常会話にさほどの支障を生じない程度のものであつて、その程度の障害を耳鼻咽喉科医が放置することも何ら不自然ではないというべきであるし、そもそも前記証人三好豊二の証言部分は原告の聴力障害の診療に関与していない第三者の推測にすぎないことも併せて考えると、右証言部分は採用できず、他に前記甲第一三号証の記載部分及び原告の本人尋問における供述部分の信用性を疑わせるに足りる証拠はない。

そして、右各証拠によれば、原告の聴力障害は、昭和四四年ころから硫酸ストマイの投与の時まで、その進行を停止していたものと認めるのが相当である。

次に、硫酸ストマイ投与開始後の原告の聴力についてみるのに、前記原告の聴力検査結果(別表二及び三)のうえからは、昭和五二年二月一九日に右耳八〇〇〇サイクルにおいて前回(同年一月六日)検査値よりも三五デシベル悪化し、以後その他の周波数においても聴力が低下して行く状態を看取することができる(<証拠>によれば、聴力検査における測定誤差は多くて一五デシベル程度であることが認められ、右の原告の聴力損失値低下は測定誤差をはるかに越えている。)。

そうすると、原告の聴力障害は、硫酸ストマイの投与開始の日である昭和五二年一月七日から遅くとも同年二月一九日までの約一か月半の間に、その進行が再び始まつたというべきこととなる。

なお、一回一グラム、週二回の投与法により原告に対して昭和五九年二月一九日までに投与された硫酸ストマイの総量は一三グラムにすぎないが、<証拠>によれば、ストマイ(但し、主としてジヒドロストマイ)による聴力障害は、一〇グラム以下の投与量のもとでも発症した例が多数報告されていることが認められる。

(三)  硫酸ストマイの投与開始後の耳鳴りの発症

<証拠>によれば、ストマイ(但し、主としてジヒドロストマイ)投与量二〇グラム以内で聴力障害が発現した七例の症例においては、殆ど全例に頑固な耳鳴りを伴つていた旨の研究報告があること、原告は、硫酸ストマイの投与期間中である昭和五二年五月末ころ、突然それまで一度も経験のない大きな耳鳴りに襲われ、以後、絶えずこのような耳鳴りの自覚症状があることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない

(四)  聴力低下の波及の状況

(1) <証拠>によれば、硫酸ストマイ、ジヒドロストマイ等アミノ配糖体の摂取を原因とする聴力障害は、高音域(周波数大)から順次低音域(同小)へ波及し、そのため、聴力検査の結果をグラフに表わすと高音急墜型、高音漸傾型、水平型の順に移行するのが典型であることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(2) そこで、原告の聴力検査の結果(別表二及び三)から看取しうる聴力障害の波及状況が右ストマイを原因とする聴力障害の典型と一致するかどうかという点について検討することとするが、右の検討に先立つて、原告の聴力検査結果の読み取りの方法について以下に若干の考察を加えておく。

前記原告の聴力検査の結果をみると、昭和五二年六月八日の大阪大学医学部付属病院における第一回目の検査結果は、その前の同月二日の加古川病院におけるそれに比べてかなり好転していることを看取しうる(左耳気導一〇〇〇サイクルにおいて二〇デシベル、同二〇〇〇サイクルにおいて三〇デシデル、同四〇〇〇サイクルにおいて二五デシベル、右耳骨導二〇〇〇サイクルにおいて二〇デシベルそれぞれ好転)。しかし、前記認定のとおり、原告の聴力障害は有毛細胞の破壊に基づくものであり、昭和五二年六月二日の時点でその障害の状態は、同日における聴力損失値(別表二及び三)に照らすと、決して軽度のものとはいえず、かなりの程度進行していたというべきところ、<証拠>によれば、ある程度破壊の進行した有毛細胞は修復、再生しえないこと、したがつて、昭和五二年六月八日の聴力検査結果が好転したのは、検査場所及び検査者が前回と異つたため原告において錯覚を生じたことが原因であると考えられることが認められ、右事実に照らすと、同日の検査結果は、信頼に足るものとはいえないので、検討資料から除外すべきである。

次に、気導聴力と骨導聴力との相違につき、<証拠>によれば、気導聴力は、外界からの音波を伝音系(外耳、鼓膜、中耳、内耳液)を通じて聴くいわば通常の聴力であり、骨導聴力は、右のような伝導方法(「気導」という。)によらず振動が直接内耳に伝わる骨導によって聴くいわば感音系(内耳感覚細胞、末梢神系、中枢神経)のみによる聴力であること、一般に、被検査者は聴えのよい方の耳で聴いてしまう(陰影聴取)傾向があるところ、そのような陰影聴取は骨導聴力の検査においてより大であることが認められるので、聴力障害の測定にあたつては、気導聴力の検査結果をより重視すべきである。

(3) 前記(2)に述べたところに基づいて原告の聴力検査結果(別表二及び三)をみると、右耳気導聴力は、昭和五二年二月一九日に八〇〇〇サイクルにおいて三五デシベル、同年六月二日に四〇〇〇サイクルにおいて三五デシベル、同年七月一二日に二〇〇〇サイクルにおいて二五デシベルそれぞれ置ママ前回検査値よりも低下し、このように聴力低下が高音域から中音域へ順次波及して行き、したがつて、右耳気導聴力の検査結果をグラフに表わすと高音急墜型から高音漸傾型に移行して行つたこと、その後昭和五三年六月二〇日からはほぼ水平型となつたことが看取しうる。

以上の点において、原告の右耳気導聴力の検査結果は、ストマイを原因とする聴力障害の典型と一致するものである。

2  他方、被告らは、両者には差異が認められると主張し、右主張に沿う証人三好豊二の証言部分もあるので、これにつき検討する。

(一)  原告の聴力検査結果(別表二及び三)をみると、悪化したり好転したりする波動性を示す部分があること(例えば、左耳気導五〇〇サイクルや右耳骨導二五〇サイクルにおいて顕著であり、それぞれ過去の最悪状態から二〇デシベル、二五デシベルの回復がみられる。)を看取しうるが、被告らは、このような特徴はストマイによる聴力障害の症例としては考えにくいと主張する。

しかしながら、前記認定のとおり、原告の聴力障害はかなりの程度進行した有毛細胞の障害に基づくものであり、かつ、ある程度障害の進行した有毛細胞は修復、再生しえないことからすると、二五デシベルもの聴力の回復があることは不可解であり、一方、前記認定のとおり、聴力検査においては、一五デシベル程度の測定誤差が生じうることを併せて考察すれば、原告の聴力障害の進行の波動性はむしろ測定誤差による面が大きいことが窺える。

したがつて、進行が波動性を示しているとして原告の聴力障害がストマイによる聴力障害の典型とくいちがうものと速断することはできない。

(二)  被告らは、硫酸ストマイは全身投与されたのであるから通常はこれに基づく聴力障害は両側性であるはずなのに、原告の場合は右耳ばかりが聴力低下していると主張する。

しかしながら、原告の聴力検査結果(別表二及び三)をみると、原告の左耳は硫酸ストマイの投与前から聴力障害があつたこと、硫酸ストマイの投与開始後、左耳の聴力障害も右耳ほど顕著ではないが徐々に進行していること、少くとも昭和五四年九月二一日以降の検査結果のうえでは、左右両耳の聴力損失値に有意的な差異は認められないことが看取でき、右事実によれば、原告の聴力障害の進行も両側性というべきであり、ただ、左耳は硫酸ストマイ投与前から聴力障害があつて、もとから左右両耳の聴力にかなりの差異があつたため、その特徴が顕著には現われなかつたにすぎないものと推認できる。

したがつて、進行が一側性であるとして原告の聴力障害がストマイに基づく聴力障害の典型とくいちがうということはできない。

しかも、仮に原告の聴力障害の進行が一側性と認められるとしても、前掲の甲第四号証及び同第一五号証によれば、ストマイの少量の投与により聴力低下が発現した症例では、一側性の例がかなりの割合を占めている旨の報告もあることが認められるので、右事実に照らすと、右の被告らの主張はさほど根拠のあることとは思われない。

(三)  原告の気導聴力の検査結果(別表二)をみると、右耳八〇〇〇サイクルにおいて前回検査値よりも三五デシベル低下したことが判明した日が昭和五二年二月一九日、同じく四〇〇〇サイクルにおいて三五デシベル低下したことが判明した日が同年六月二日であつて、その間約三か月半もあるところ、被告らは、右の期間はストマイによる聴力障害の症例としては長すぎると主張する。

しかしながらも、一回一グラム、週二回投与法に従つて原告に投与された硫酸ストマイの総量は、同年二月一九日の時点(八〇〇〇サイクルにおいて三五デシベルの低下が判明した日)では一三グラム、同年六月二日の時点(四〇〇〇サイクルにおいて三五デシベルの低下が判明した日)では四二グラム、その差二九グラムであるところ、<証拠>によれば、会話音域まで聴力低下したストマイ(但し、主としてジヒドロストマイ)による聴力障害一四例の中には、八〇〇〇サイクルにおいて三〇デシベルの聴力低下が発現するまでの投与量と同じく四〇〇〇サイクルにおいて同程度に聴力低下が発現するまでの投与量が、それぞれ、一五グラムと五〇グラム、一四グラムと七〇グラム、一二グラムと五〇グラム、八グラムと六〇グラム、一八グラムと七五グラム、一一グラムと五〇グラムであつた症例があるとの研究報告があることが認められ、これら報告症例においては、八〇〇〇サイクルの低下から四〇〇〇サイクルの低下に至る間に投与されたストマイの量は原告の場合のそれを越えているのである。

右の事実に照らすと、原告の場合、八〇〇〇サイクルの低下から四〇〇〇サイクルの低下までの期間の点で、ストマイによる聴力障害の症例として奇異とはいえず、むしろ、多分にありうるところであるとすらいいうる。

(四)  被告らは、原告の聴力検査の結果上、高音域の聴力低下後中音域をとばして低音域から先に低下していること、また、気導八〇〇〇サイクルにおける聴力損失値は八五デシベル付近にとどまつており、四〇〇〇サイクルの低下後にも八〇〇〇サイクルでの進行がみられないことの二点においても、ストマイによる聴力障害の典型との間に差異があると主張する。

しかしながら、原告の聴力検査の結果から右主張にいうがごとき特徴が測定誤差を越えて明白に読みとれるとは到底いいえないから、原告の聴力障害の進行が硫酸ストマイによるものであることを否定する決定的理由とはなしえない。

(五)  原告の聴力検査結果(別表二及び三)をみると、原告の聴力障害は硫酸ストマイを最後に投与した日である昭五二年五月三一日以降昭和五六年九月二日まで漸次進行している状態を看取することができるが、被告らは、硫酸ストマイの場合は投与を中止すれば聴力障害は進行しないというのが定説であり、しかも、ジヒドロストマイの場合であつても投与中止後一年以上も障害の進行する症例はないと主張する。

しかしながら、<証拠>によれば、ジヒドロトスマイに限定されずアミノ配糖体(硫酸ストマイもこれにあたる。)にあつては、投与中止後に聴力障害が進行する症例がかなりあることが認められ、右認定に反する証人三好豊二の証言部分は、右各証拠に照らして信用できない。

もつとも、<証拠>によれば、ストマイ投与中止後にもその薬効が保存され聴力障害が進行する期間は、長くともせいぜい一年間程度であることが認められるので、原告の場合に投与中止後の進行期間があまりにも長期であるという点は、ストマイによる聴力障害の典型との差異として等閑視できないといわねばならない(この点については後で触れる。)。

3  更に、硫酸ストマイ投与後の原告の聴力障害の進行について硫酸ストマイ以外に考えうる原因について検討するのに、<証拠>中には、原告の聴力障害の進行は両側性進行性感音性難聴の症状と一致する旨の証言部分がある。

そして、なるほど、<証拠>によれば、原因不明の進行性感音性難聴においては、左右両耳の進行にくい違いが多くみられる点、階段状に不規則に進行する点に特徴があるとの研究報告のあることが認められ、右の諸点において、前記のとおりの原告の聴力障害の進行の特徴(但し、前述のとおり、明白に読みとれるとはいえない。)と一致する面があるということができる。

しかしながら、他方で、<証拠>によれば、特発性感音難聴(進行性感音難聴)は、五、六歳、思春期、妊娠及び分娩の時期、三〇歳代、七〇歳代に多く悪化するのが特徴であるとの研究報告があること、また、別に、原因不明の感音性難聴者一〇三例を長期間(二年ないし一一年)観察したところ、一三例の進行例があつたが、これらについては、全例が観察期間六年以内に認められた点、高音漸傾型が七〇パーセントを占めた点、高齢者に多く出現する傾向にあつた点の諸点に特徴があるとの研究報告があることが認められるが、前記のとおり、原告の聴力障害は、七年以上もの停止期間を経て二四歳時に進行を再開しているのであるし、右再開当初高音急墜型でもあつたから、右の各特徴点とは差異を有している。

したがつて、硫酸ストマイ投与後の原告の聴力障害の進行が原因不明の進行性感音性難聴の症状と疑いなく一致するとは、到底いうことができない。

4(一)  以上の検討のとおり、本件においては、原告の聴力障害の進行の再開と硫酸ストマイの投与とが時間的に接着し、投与量の点からみても疑問の余地も少ないこと、特に右耳気導における高音域から中音域への聴力低下の波及状況がストマイによる聴力低下の典型と明白に一致することが認められ、右事実のもとでは、進行が一部波動性を示す等若干の疑問点があるにしても、なおも、硫酸ストマイ投与時から投与中止後一年程度までの間の原告の聴力障害の進行は、硫酸ストマイを原因とするものと推認することができ、以上に検討した事項のほか右認定を覆すに足りる証拠はない。

(二)  また、以上の検討によれば、硫酸ストマイの投与中止から約一年以降の原告の聴力障害の進行は、むしろ他原因の進行性感音性難聴によるそれであると推認せざるを得ないが、右にいう「他原因による進行性感音性難聴」も、前記「硫酸ストマイによる感音性難聴」に引き続きこれと相接して判別し難い症状のもとに進行したものであるところ、その「他」原因が具体的に何であるかを認めるに足りる証拠もないのであるから、これは硫酸ストマイないしその聴力障害によつて誘引されたものと推認するのが相当であり、硫酸ストマイの投与との間に相当因果関係があるというべきである。

もつとも、原告の場合、硫酸ストマイ投与以前にみられた前記聴力障害が再び進行を始めたものとうかがえない訳ではないが、そうとしても、右にいう以前の障害は七年余も進行を停止していたのであり、前に述べたところからして、これが何もないのに再び進行を始めるということは通常の事態では考え難いところであり、仮に硫酸ストマイ投与前の聴力障害が再発したものであるとしても、それは硫酸ストマイ投与ないしこれによる聴力障害に誘発されたものであると認めるのが相当である。

他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(三)  結局、硫酸ストマイ投与後の原告の聴力障害は、すべて硫酸ストマイの投与との間に因果関係を有するものである。

五被告らの責任原因

1  被告飯塚の不法行為責任

(一)  一般に、医師が患者の疾患に対する治療行為を実施する場合、それが疾患治療のための行為としては適切であつたとしても、これによつて患者の身体に重大な副作用を発現せしめる危険があるときは、医師としては、本来の治療目的に即して避けることのできない場合を除き、副作用による被害を回避すべき高度の注意義務を要求されているというべきである。

そこで、以下に、本件における具体的な注意義務の内容とこれに対する違反行為の有無につき検討する。

(二)  <証拠>によれば、原告の加古川病院における初診時(昭和五二年一月四日)の肺結核症の病状は、エックス線写真像からみた病巣の広がりの程度が結核病学会分類1ないし3のうち最も軽度の1に該当し(現在、同年四月一五日の病巣に関する資料しか残存していないが、初診時の病巣は同日のそれよりも若干悪い程度であつた。)、喀痰中の排菌検査の結果では塗抹検査、培養検査とも陰性であつたが、活動性で増殖過程にあつたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。そして、<証拠>によれば、当時における結核予防法施行規則(昭和二六年厚生省令第二六号)に基づく厚生省告示「結核医療の基準」によると、硫酸ストマイ、パス及びヒドラジドの三者併用法が原則的、一般的治療法であると指定され、かつ、現に最も広く臨床医に採用されており、また、硫酸ストマイの投与については、その副作用を回避するため一回一グラム、週二回投与法によるのが一般的であつたことが認められ、<証拠>によれば、硫酸ストマイによる聴力障害の発症率は、ジヒドロストマイに比べて著しく低いことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

また、既に感音性の聴力障害のある耳がストマイによる聴力障害を生じ易いか否かという点については、<証拠>によれば、肯定、否定のいずれの研究報告もあることが認められ、少くとも、これを肯定する考えが結核医療従事者の間で公知のものであつたとまでは認めるに足りない。

以上の事実のもとでは、被告飯塚には、当初から原告に対する硫酸ストマイの投与を一切回避すべき注意義務があるとまではいえない。

(三)  しかしながら、ストマイによる聴力低下は八〇〇〇サイクルの高音域において発現し順次低音域に波及するのが典型であること、ストマイの投与中止後にも一定期間聴力障害が進行する症例があることは前記認定のとおりであり、<証拠>によれば、右のごときストマイによる聴力低下の特徴は、原告に対する治療行為の時である昭和五二年以前に多数の文献によつて発表され、昭和五二年当時には既に結核医療従事者の間で公知のものとなつていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

また、<証拠>によれば、結核医療従事者の間では、患者にストマイを投与する場合には、これによる聴力障害の発生を回避するため、ストマイの投与開始直前に一回聴力検査を行い、その後、一回一グラム、週二回投与法によるときは、投与後相当期間約一か月の間隔で継続的に聴力検査を実施することが一般化していたものと認めることができ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

更に、原告の喀痰排菌検査の結果が陰性であつたことは前記のとおりであり、<証拠>によれば、昭和五二年当時の結核医療の基準のうえで、菌が陰性の場合には硫酸ストマイを除きパス及びヒドラジドの二者併用療法でもよいとされていることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない(なお、<証拠>によれば、リファンピシン及びヒドラジドの二者併用療法は、当時効果の評価や投与法が確立されておらず、少なくとも原告のごとき広汎空洞型に該当しない症状の患者に対しては使用すべきではないとされていたことが認められる。)。

以上に認定の各事実を総合すれば、被告飯塚には、原告に対する硫酸ストマイの投与開始後相当期間は長くとも約一か月を超えない間隔で継続的に聴力検査を実施し、八〇〇〇サイクルの高音域において測定誤差(多くて一五デシベル)を越える聴力損失を発見した場合には直ちに硫酸ストマイの投与を中止してパス及びヒドラジドの二者併用法等に切り換え、聴力障害の進行、会話音域への波及を防止すべき注意義務があるというべきである。

ところが、前記認定のとおり、被告飯塚は、硫酸ストマイの投与開始後約一か月半後の昭和五二年二月一九日に漸く開始後第一回目の聴力検査を実施し、この検査の際、右耳気導八〇〇〇サイクルにおいて三五デシベルもの聴力低下を現認しながら、なおも硫酸ストマイの投与を続行し、同年六月二日の聴力検査(なお、この間一か月半以上の間隔を置いてしか検査をしていない。)の際に右耳気導四〇〇〇サイクルにおいて三五デシベルの聴力低下を発見するに至り初めて投与を中止したというのであるから、被告飯塚には右の注意義務違反があることは明らかである。

そして、右違反により本件聴力障害が発生したことは、これまでに述べたところから明らかである。

(四)  なお、証人三好豊二の証言中には、原告の聴力障害の進行状況はストマイによる聴力障害の典型と差異があるので、八〇〇〇サイクルにおいて三五デシベルの聴力低下を発見したからといつて直ちに投与を中止すべきであるとはいえないとの意見を述べた部分があるけれども、右証人が原告の聴力障害とストマイによる聴力障害の典型との差異として指摘する事項(四2の各節冒頭に掲げた被告らの主張と同一内容である。)のうち、昭和五二年二月一九日という早い時期での聴力検査のみから看取しうる項目は皆無に近いのであつて、したがつて、右の時期においても、被告飯塚は、原告の聴力低下の原因としてまず硫酸ストマイを疑うべきであるから、右の意見は採用できない。

(五)  以上のとおり、被告飯塚には診療行為上の過失があつたというべきであり、これによつて生じた損害につき、民法七〇九条に基づく賠償責任を免れない。

2  被告国の不法行為ないし債務不履行責任

(一)  被告国が加古川病院を開設し、被告飯塚は被告国に雇用されて同病院に勤務していたことは、前記のとおり、当事者間に争いがなく、右事実のもとでは、被告国は、被告飯塚が診療行為に伴つて原告に加えた損害につき、民法七一五条一項に基づく使用者責任を負う。

(二)  また、右事実に加えて、被告国が原告との間で原告の肺結核症の治療を目的とする診療契約を締結したことも当事者間に争いがなく、上記各事実のもとでは、被告国は、原告に対し、診療契約に付随して前記1(三)に述べたと同一内容の注意義務を負うというべきであり、また、被告飯塚は、右の義務につき被告国の履行補助者であるということができる。そして、被告飯塚は、前記1(三)のとおり、右義務に違反したものであるから、被告国は、原告に対し、使用者責任と同時に、民法四一五条に基づく債務不履行責任をも負う。

六損害

1  被害の程度

(一)  原告の現在の聴力障害の程度は、別表二及び三の昭和五六年九月二日欄のとおりであつて、平均純音聴力損失値が右耳八五デシベル、左耳八〇デシベルであること、原告の聴力障害は、有毛細胞のかなりの程度の破壊によるものであるから、今後の回復の見込みはないことは、前記認定のとおりであり、右の後遺障害は、昭和五二年四月一日以降の事故に適用される政府の自動車損害賠償保障事業損害てん補基準等(以下「てん補基準」という。)別表Ⅰ後遺障害等級表(以下「等級表」という。)のうえでは、第4級3「両耳の聴力を全く失つたもの」に該当することは当裁判所に顕著である(昭和51年1月19日医調50―225号自動車保険料率算定会医療費調査部長通知「自賠責保険における後遺障害認定基準取扱いの件」、「昭和50年9月30日基発第565号労働省労働基準局長通達「労働災害障害等級認定基準」各参照。)。

なお、前記認定のとおり、原告は現在も頭痛及び耳鳴りの自覚症状を有しているけれども、右頭痛や耳鳴りの被害の程度を客観的に明らかにする資料はなく、これを数値化することは困難である。

(二)  ところで、原告には硫酸ストマイの投与以前から聴力障害があり、その程度は別表二及び三の昭和五二年一月六日欄記載のとおりであつたこと、原告は、少くとも昭和五二年一月ころまで、対話者と支障なく通常の会話をかわすことができていたことは、前記認定のとおりであり、右のごとき既応の障害は等級表第11級5「両耳の聴力が1メートル以上の距離では小声を解することができない程度になつたもの」に該当することは、当裁判所に顕著である(参照同前)。

そして、右の状態から(一)記載の状態への増悪をもつて、本件硫酸ストマイの投与に基づく原告の被害というべきこととなる。

2  損害の額

(一)  逸失利益

<証拠>によれば、原告は、昭和五二年七月一一日、肺結核症の軽快により加古川病院を退院し、昭和五五年七月(二七歳)まで通院加療を受けた結果、右疾患は治癒したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はなく、右認定事実によれば、原告の就労可能期間は、二七歳時から六七歳時までの四〇年間とするのが相当である。そして、不法行為ないし債務不履行の時は昭和五二年二月ころから同年六月ころまで(二四歳時)とみうる。

てん補基準別表Ⅱ労働能力喪失率表のうえでは、労働能力喪失率は、第4級九二パーセント、第11級二〇パーセントとされていることは、当裁判所に顕著であり、右事実を勘案すると、硫酸ストマイの投与に基づく原告の労働能力喪失率は、右両数値の差である七二パーセントとするのが相当である。

<証拠>によれば、原告は短期大学率の女子であることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はなく、昭和五五年度(二七歳時)賃金センサスのうえでは、昭和五五年度の短大卒二七歳女子労働者の年間平均賃金は二二三万九二〇〇円(きまつて支給する現金給与額一か月一四万〇六〇〇円、年間賞与その他特別給与額五五万二〇〇〇円)とされていることは、当裁判所に顕著である。

以上に基づき、ホフマン法により中間利息を控除して原告の逸失利益現価(不法行為時における)を算出すると、次の数式のとおり、三〇三四万円(一万円未満切捨)となる。

(二)  慰謝料

てん補基準によると、後遺障害に対する慰謝料の額は、第4級四一三万円、第11級九〇万円とされていることは、当裁判所に顕著であり、右事実と、前記認定のとおり、原告には聴力低下のほか頭痛及び耳鳴りの被害も生じたこ とを勘案して本件の慰謝料額を算定すると、四〇〇万円が相当である。

(三)  弁護士費用

以上(一)及び(二)の合計額三四三四万円の約一割に相当する三五〇万円を相当と考える。

(四)  まとめ

以上によれば、損害額の合計は、三七八四万円となる。

七叙上の次第で、その余の事実について判断するまでもなく、被告ら両名は、各自、原告に対し、損害金合計三七八四万円及びこれに対する不法行為の日の後であり本訴状送達の日の翌日である昭和五六年一一月二六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務を負担している。

したがつて、原告の本訴請求は、右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当としてこれを棄却すべきであり、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して(なお、仮執行免脱宣言を付すのは相当でないと思料した。)、主文のとおり判決する。

(牧山市治 貝阿彌誠 染谷晃)

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